60.望み、求め、

「――お前は俺に、何を望む?」



 朱い世界の中。
 空すら覆い隠すネクターの花弁の中を突き進みながら、その馨しさに、心が蕩けた錯覚をする。

 だから問いかけた言葉は、或いは踏み留まるためにだ。
 自分の立ち位置を検めるため。
 そして、それを決める座標として、その存在は確かに大きかった。

 だのにどうしてそのように惑うのだろう。
 金色の瞳が瞠られる。緊張を孕んで、自分を見ている。
 それが果たして何を恐れるのか、この身には皆目見当がつかない。



「聞こえていなかったか」
「いや……そうでは、ないが……何故、それを聞くのだ? 貴様は、我の言葉など……とうに厭って居たと思ったが」

 そんなことを気にするのかと、こちらこそ不思議な気分だった。
 目の前の龍は、本来の貌を忘れた龍は、存外殊勝な心持ちをしていたらしい。
 今更の再発見はしかしどこまでも瑣末だった。

「逃げ回る限界を悟った。……そもそも、もっと早くはっきりさせておくべきだったんだ。お前が未だに俺に望みを見出しているかどうかを」



 ――望み。
 子を生せと、始まりはただそれだけの求めと、縁だった。
 花冠にはそれが分からなかった。
 子を作ることも、育むことも、何かを築き上げることも、自分からはひどく縁遠かった。

 だからこそ憧れでもあった。
 憧れであればこそ、遠く、遠くに在った。

 自分の知らないものでしかなかった。



 貴様の口が言うのならば、そうなのだろうな。

「お前が腹を括ったモノと見なして、敢えて我も語ろう」

 フィンヴェナハは妙に物分かりがよく、それもまた、不可解に思えた。



 ぎしぎしと奥底で臓腑が軋んでいる。
 拍動で縛って、縫い止めて、駄々をこねるように叫びを上げて、
 だが世界の朱さはもう今更だ。最早それに心動かされもしない。
 ただあやして、受け入れてやれば、それでよかった。

 同じものなのだと知っている。



「有体に言えば、我もまた限界を感じていた。追えど探れど、風の如く自在に我の手から逃れるお前の姿にだ」

 風。
 この地の馨しい風は、酷く微温いな。
 そんなことをぼうと考える。

「我は貴様と共にこの不埒なる世界に落ちて、共に同じ場に立ったと思っていた。だが、そんなモノは全て体の良い思い込みだったと知らしめられた。他ならぬ貴様が、身を以って教えたからだ。……我はずっと見定めることを……」

 恐れていたのだ。
 ノイズの混じった声が、静かに鼓膜を揺らした。



 それが決着には程遠いことも知っていた。
 ただ、花冠の身は離別をも知って、
 予感ではなく、それが、自分の選ぶ道なのだろうとも理解していた。
 残すことを求める者と、残すことを知らず、拒む者。
 端から交わる筈もなかったのだ。

 交わらず離されることもない平行線。

 自分たちの行く先が、この身が、”そう”在ることを確実にし告げて、思い知らせて、希望を絶つ。
 それで幾らか楽になれるのだろうと思った。
 不誠実と向き合い、答えを示した。実績だけ作って心を軽くする不誠実。
 ああ、最初から自分は、この気高い龍には不似合いだ。



 どろりと内腑が溶けている。



「お前に怖れがあるとはな」
「脆弱たるヒトの身がそうさせたのだ。貴様が我を避ける理由は、我にあるのだろう。そう自省したのだ」
「まあ、誰かれ構わず避けている訳ではないな」

 自分の言葉が妙に軽く感ぜられるのは恐らく錯覚ではないのだろう。
 語るそれは、嘘ではない。むしろ限りなく真実に近い。
 だからこそ。

 取り繕った嘘よりも、何一つ気兼ねのない真実の方が軽々しい。
 あまりにも滑稽な不条理だった。

「理由がないということはないよ。それがお前の過失かどうかは別だが」
「……それは」

 真実とは、
 突き付けるには気が楽で、
 突き付けられるには鋭く胸を衝く。

 そういうものだと思い出す。
 こちらを踏み込んだフィンヴェナハの表情は、それ故に切迫して映った。

「我が、貴様に負けたからか? 既に三度も」
「いや。そんなことは関係ない。俺は、……いや」

 ――お前の強さになど、最初から、興味がなかったなどとは。
 あまりにも余計な言葉だろう。

 惹かれたのはその気高さと、圧倒的な有り様と、迷いなく求める様。
 そしてなにより、求められること。

 嫌ったのはその傲慢と世間知らず。
 そしてなにより、求められること。

「俺の中身がお前を嫌っていた。俺を求めるお前をだ。……それだけの話だな」
「お前の、中身……」
「フィンヴェナハ、俺の質問に答えろ」

 突き付ける。
 問いかけているのはこちらだ。
 花冠はフィンヴェナハの答えを求めていた。

 ――その答えが。その答えで、できることなら、



「今もお前の中身は、否、その赤い瞳は、我の答えを聞いているのか?」

 その問いに頷いたのは真意を知らなかったからで、
 どちらにせよ、答えなど変わらなかった。

 花冠は花冠だった。
 花冠でしかなかった。

 切り離せるものでない。

「分かった。なれば、お前にも聞かせてやろう」

 それを、どうして、分けて考えられよう。



 ――我は未だお前を諦め切れてはいない、花冠。
 方法は知らぬ、力も無い、すべてにおいて引いて捕らえる術も無い。
 だが、それは全てが裏返しとなった結果だ。我の望みは変わらぬ。貴様を我が物とすること――

「……いや、貴様の傍に在ることだ」



 そうか、と。
 そこに、相槌以外の意味が込められ得ただろうか。

 ただ、傍に在る、その単純な響きだけは、自分にも解し得た。

「では、お前は――お前の目的は、既に完遂されているのだな」

 こうして隣に在る。
 言葉を交わしている。
 それで十分、願いは果たされているのだろうと、

「否、成されてはいない」

 でなければ、それ以上に、何を願うことだろうか。



「貴様は、一度も歩み寄っては居ないではないか」



 それ以上に、何を望むというのだろうか。



「……傍に在ることが望みだろう。であれば、今の状況が既にそうではないのか」
「貴様が、共にあることを望んでは居ないだろう。そうでなければこの様なこと、路傍の石も同然だ」
「そうか。では」

 お前の望みは果たされないな。
 朱い世界の中で、濃密な怨嗟と醜愛の中で、四肢を引き千切られて貪られる錯覚の中で、それを望む自覚の中で。






「諦めて去るか、果たされないと知って続けるか、好きにするといい」



 この言葉を告げる時を、ずっとずっと、待ち侘びていた。







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 自己愛というものには限界がある。
 ただそこに在る。単純に思われるそれを、長く永劫に続けるには、自己愛では足りない。
 だから、自己ではない自己で在ろうとした。
 愛すべきあなたを、自己として愛せるように。
 あなたからの愛を享受できるように。

 永遠を求めて、愛するあなたを堕として引きずり込んで、いびつに歪みきっても、声が届かなくとも。
 完結した世界で。ずっと。ずっとずっとずっと共にその先を求めて、
















 破綻を待ち詫びて待ちきれずに、わたしたち、この世界に来たのでしょう?