62.摩耗

 じりじりと摩耗していく。
 爪先から、指先から。削れていくように少しずつ失われていく。
 後に残るのは欠落だけで、その欠落だけでは、失われたものが何か推し量ることはできない。

 ただ、事実のみが残る。

 はじめに抱いた感情の貌すらも今はもう思い出せない。
 そのことを知っている。惜しむことはしない。
 いや、少しだけ、惜しんでいる。



 言葉をうまく紡げないのも、
 触れることすら許さなかったのも、
 厭わしがって背を向けたのも、

 それは、自分の意思によるものだった。
 揺らがない。手は伸べない。
 隔てられていることを知っている。



 振り返らない。
 哀惜もない。
 ただ、あの日の、

『――では人よ。貴様の名を聞こう』

 木々の狭間に揺れる陽だまりの、微かな暖かさだけを覚えている。