68.最後に
「フィンヴェナハ、この戦いが終わったらお前は帰れ。話はクライカリオスにつけてある」
覚醒した魔神とやらを倒すために集まった、その戦いの前準備の時間であった。
花冠は攻撃手としての自らの役割を全うすべく刃を研いでいた。
恐らくあれはこの一揆で相対した中で最も手強い敵であり、そしてこれが恐らく、自分たちの最後の戦いであることも分かっていた。
龍は――竜は、唐突な言葉に、その意図を測りかねたように見えた。
「帰れと言っている。郷里は恋しいだろう」
「……あの暑苦しい女に負けた場合のことを言っているのか?」
「どちらでも関係はない。この一揆はじき終わる」
言葉を交わす間も、一度もそれには目をくれない。
鋭い刃の輝きだけを見つめている。
身を尖らすのと同じ感覚で、ただ、それを研ぎ澄ます。
「貴様は、帰らぬのか?」
「帰らん。俺はこの地を終末として定めて、この地で果てる。だが、お前がそれに付き合う必要はないだろう。……最初から俺の巻き添えだったのだから」
息で砥石の粉を吹き飛ばし、布を通す。
まだ足りないな、と目を細めた。
「訳の分からぬことを言う。郷里があるのは貴様で、郷里を恋したのも貴様だ。我ではない。なぜ、我のみを帰す」
「俺ではないよ」
その故郷は自分のものではない。
焦がれていたのもまた、自分ではない。
全ては模倣で、それが贖罪になると思い込んでいた。
彼はとうに死んでいたのに。
とうの昔に殺してしまったのに。
「俺じゃない。……だが、お前を巻き込んだのは俺だ。……ああ、つまらない話だな。ただ――」
――俺自身の、後始末に過ぎん。
発つ鳥後を濁さずという言葉がある。
空を飛ぶものには、昔から、憧れていたようにも思った。
それが誰の情念なのかすら、自分には最早、分かりはしないのだが。
納得がいかない。
そういう表情をしていた。
「我は、貴様が、我を遠ざけるのは、貴様の有るがままの心であると思っていた。貴様が、自らの心に逆らわぬ為だと」
だからこそ、容れた積もりであった。そう語る。
「だが、今の貴様の言はまるで道理に合わぬ。何を始末するつもりだ」
息を吐く。
どうにもやはり、この竜とは、断絶が大きすぎた。
それは自分のせいでもある。むしろ拒み続けた自分に拠るところが大きい。
だのにどうして、もっと早く、告げてしまうことができなかったのか。
変わらないのだと、少年には自嘲した。
「俺達がこの世界を訪れる結果となったのは、俺の――俺の、中に在るモノが選んだことだった」
この世界へと”花冠”を引き込めば、世界に適合しない忍の力は失われる。それが目的で、そうすれば、これは自分を得ることができると、そう考えていた。実際は長く抑え付けられていた”これ”はすぐには力を発揮できず、また新たに得たエンブリオの力で随分と長くもってしまったが。
どちらにせよ、そういった事情は関係ない。この竜には、なんら一つ、関係のない事情で、本当にただ、巻き込まれただけだ。
この世界を訪れた必然性が、この竜にはない。
だから、この世界で朽ち果てるのは、見合わない。
「事故に過ぎない。……だから、俺はお前を帰してやる義務があるし、俺はお前がこの世界に留まり続けることを、快く思わない」
それだけの話だった。
「お前の、中身か」
零された声は、どこか憎々しげにも響いた。
「無力な男を拐し弄び、他者を巻き込むことも厭わぬ。とんだ傲慢さだな」
「あまり悪く言ってくれるな」
耳が痛い。
なにせ、この中身は自分に近い。自分が嘗て求めた者でもある。
そして何より、
「これを追い詰めたのは俺だ。……その始末も、付けねばならん」
晩節を汚しすぎたなと思う。
発つ鳥後を濁さず。理想とは、程遠い。
「我の滞留を望まぬのは……本当にお前なのか?」
震えた声が問い掛ける。
「我を厭うのは、その中身では…ないのか」
「厭うのはこれだ。そして、お前を帰したいと思うのは、俺だ」
なにせこちらはすぐにでも死んでしまえと耳に喧しい。
面倒なんて見てやる必要はない、放り出されて死んでしまえばいい、そっちのほうがせいせいする、全く口汚く聞くに堪えない。大した憎悪だとおかしくなる。そうなってしまったのも、間違いなく、自分のせいで、
――傍においてもらえるだけでいい、というのは、
繰り返したくはないものだなと、残酷にも、身勝手にも、思う。
「俺はお前の生を歪めることを良しとしない。何一つ希みを齎さない男のために、無為に空振るべきものではないだろう」
気高き竜に強いるべき仕打ちではないよ。
続けた言葉に、自嘲か、竜が哂う。
視線を落とす。
「貴様が、未だ、我を気高きモノと思っていたとはな。……とうに、見損なわれたと思っていた」
「ああ、その科白もお前には似つかわしくないな。気高き竜のそれではない。……だから、かな」
それを奪った自分が、歯痒く憎いのだと思う。
僅か、沈黙が落ちて、
「……何か、望むことは有るか」
呟きのような問いかけだった。
「仮に、元の世に我が戻ったとして。その我に、何か望むことはあるか」
その答えは、自分で驚くほどすんなりと、唇から滑り落ちた。
「――空を」
「空を、目指してくれ。翼は落ちたかもしれん。俺が落とした。……ああ、だがな、それでも」
「あの日舞い降りたお前の姿は、未だ俺の目蓋の裏に、色濃いよ」
目を伏せる。
そうすれば、思い出せるような気がした。
この灼熱の、赤い朱く塗り潰された世界の中でも、その残像が。
或いは、幻影が、確かに。
どこかに。
「――約束しよう。貴様が居らねば、その高さに気付けなかった空だ」
「……光栄だな」
話はついたと花冠が得物の手入れを再開しても、フィンヴェナハはそこに留まっていた。
何か用事でもあるのかと思ったが特別に声をかけることはしないでいたが、やがて痺れを切らしたか、それは花冠の名を呼んだ。
”花冠”を呼んだ。
「少し、傍に寄ってもいいか」
寄るだけならば。そう答える。
幾らかの苦痛も伴うが、それくらいは、こちらの我儘を通した対価に思えた。
竜が傍らに腰掛ける。
触れては居ないが、極近い距離だった。
ひどく久しく、だが劈く叫びが狂おしい。
「肩に触れても良いか」
我慢しよう。そう答える。
どろどろと頭を酔わす絶叫を、身の裡を掻き毟る爪と刃を、聞かないふり気付かないふりでどうにか耐える。
心のどこかが、存在が磨耗するのも、どうせ先は長くない身、最後で最期なのだから、あまり気にすることでもないように思えた。
何よりも、それが贖罪になるのならば、その望みを受け入れざるを得ないのだとも思った。
贖罪の代わりを贖罪で払い、空白を埋めて、満足する。
それはそれで歪で、どうにも愚かしく、おかしかった。
肩に掌が触れる。
伝わったかに思えた熱はその実、身体の中から沸き起こるものだ。
神経が焼き切られているのだろうかと思う。人の身体の構造の、正しい理に従えばそうなるのだろう。
ぼんやりと、他人事のように考える。脳が融け出すような錯覚も抱いていた。息を吐く。鎮めるのは難しく、ただ、灼熱の辛苦に耐えていた。
「隙間のお陰で腕が不自然だな。身体を寄せても良いか」
頭が意味を諒解せず、ただ、さらに何かを要求されたことだけは分かった。
思考を掻き乱す、ずっと聞き続けた声が唸りがなる。だから、保証はしない、そう返した。
何もかも、これ以上は保証ができないと。
殺してしまうかも、しれないと――
気付いた時には、その身体を突き飛ばしていた。
伸ばした腕に刃。殺し掛けたのだと、後から理解する。
揺らぎ歪む朱の視界に、どす黒い蔭が、映っている。
『はジめてだな。こノ距離まで許さレタのハ。……スマぬナ、花冠』
聴覚が狂っている。拒んでいる。どうにか喉を、絞って答える。
「……我慢を、すると、言った、からな……」
『……世話ヲカケた』
うまく言葉が返せない。呼吸を整えている。呼気すら喉を焼いているように思える。妬いている? 分からない。意識が渦巻いている。
鎮めなければと、気ばかり焦る。この後には戦いがある。自分には役割があったはずだ。後を引く訳には、影響を残すわけにはいかない。早く。意識を。戻して、だから、早く。
『花冠』
「……なんだ」
『我ハな、お前トイウ人間が好キダ。最後に、ソれガ分カッタ』
『もハヤ忘レはスマイ』
「そうか。……俺、は、どうだろう、な」
引き攣れる肺を、どうにか抑えて、息を整える。
言葉は、紡げているだろうか。伝わるのだろうか。戻らないと。分からない。
戻ろうにも、先がない。
「覚えていられるか、分からんな――」
覚えようにも、未来がない。