9.東天紅

「――   、ごめんね。おまえにはいつも本当に苦労をかけるね」

 そんなことはないよ。大丈夫。
 全部俺に任せてくれればいいから、母さんは休んでいて。
 父さんのぶんも母さんのぶんも俺が働いてみせるから。
 何も心配することなんてないんだ。



「おれも、兄ちゃんみたいに強ければ良かったのに」

 そう思うなら無茶はするな、ちゃんと療養していなさい。
 俺も生まれた頃は身体が弱かったらしいんだ。
 だから   もきっと、ずっと身体が強くなって、俺じゃあ敵わないくらいになるから。
 気休めじゃないさ、本当に俺は信じてる。



「   兄ちゃん、おかえり! 今日は何を狩ってきたの?」

 ただいま、   。今日は大きな猪を狩ってきたよ。
    のおっちゃんがぼたん汁にしてくれてるから、後で食べに行こうな。
 ああ、ほら、そんなにはしゃぐとまた転ぶぞ。



「   」



「   」「   」「   」「   」



 たくさんの人がこっちを見て笑って、小突かれたり、撫でられたり、こそばゆくて笑い返したり、それがひどく誇らしかったりして、
 だから、守らないとって思ってた。
 母を、きょうだいを、家族を、村の皆を、この生活を、全てを。

 そのために与えられた力だって信じて、疑いもしなくて、だから、だから。



 なのに。







************ * * *  *   *        *







 せせらぎの音が耳に心地良い。穏やかで涼やかなそれに耳を傾ける。
 子ども達の足を気遣っての休憩の傍ら、花冠は久方ぶりに旅荷の整理をしていた。

 とはいえ収集癖のあるフィンヴェナハとは異なり花冠の旅荷はそう多くない。
 所持品は全て必要なものだけで固め、不要と判断したものや消耗したものは端から捨て去っている。
 恬淡とも言えるその様は、旅を通していつしか身についたものだった。

 或いは、その前から。
 或いは、あの時から。



「なーなーかかんにーちゃん。これ、なんだ? 石?」

 子どもの手がひょいと伸びる。
 ジャンルカは拾い上げた砥石を掌で転がし瞳を輝かせていた。
 傍らのシズが顔を顰め、窘めるように言う。

「ルカ、不用意に手を触れるな。……すみません、勝手に」
「いや。別にいい。刃物には気をつけろ。……それは砥石だ」
「砥石? ……って、刃を研ぐ?」

 いつの間にやらアリシアも寄ってきて、興味津々にルカの手元を覗き込んでいた。
 貸してみろ、とルカから砥石を取り戻すと、小刀を取り出して砥石を刃に当てる。
 さり、と繊細な軽い音。
 それすら聞き漏らさぬようにか、息を詰めて見守る子どもの顔。

「……なんか、えんぴつ削るみてーだな」
「言い得て妙だな。それと大差ない」

 削った粉を息で払うと、今しがた砥いだ小刀で適当に草を切ってみせる。
 切れ味を増した刃が容易く繊維を断ち切った。

 研ぐ前の切れ味も見せた方が良かったか、と考えるが今更だ。

「おぉー……」
「……ずっとこうして使い続けてるんですか?」
「ああ」

 刃は砥げるが他はそうもいかない。
 握りが酷く汚れ朽ちつつあるそれを、だが花冠は捨てることをしないでいた。
 ぱちり、収めた木製の鞘もまた、同様に傷付き古びている。

「……大切な、ものなの?」

 問われて少女を見返す。大きな菫色は瞬きもせず、痛々しいくらいの真っ直ぐさで。

「……譲り受けたものだ」
「……そう」

 それ以上は踏み込まれず花冠の側も語る言葉を持たない。
 落ちかけた静寂の帳を、少年の明るい声が引き払った。

「じゃあさじゃあさ、これは? 布?」
「布だ。清潔な布は何かと入り用になる」
「いりよう?」
「必要になる、ということだ。……怪我の応急処置に、とかですか?」
「そうだな。やり方を心得ているか?」

 一応、と頷いたシズに、試しにやらせてみる。
 ジャンルカの身体を使って、怪我の部位がここの場合は、とか、縛り方がどうとか口を出す。
 シズは身体は弱いが頭が良く、飲み込みが早いから、教えられることはこの機会に教えておいた方が彼らの今後のためだろう。

 ――彼らの今後、とは。



 何の縁もなかった。今もない。
 ただ心を名残に引き寄せて、勝手に感情移入して、何の責任も取れない癖に、こうして共に道を歩む。
 何を残せるでもないことを知りながら。

 笑わない少女が、笑って欲しいと笑顔を作る少年が、全て分かって歯噛みする少年が不憫に映って、その同情が穢らわしい。
 お前が何を知っている。
 お前に何ができるというのだ。



「……これ」
「ん? どした、アリシア」

 応急処置の講義らしきものを終えて一息ついたところだった。
 遠慮がちにアリシアが指し示したのは小さな篠笛。
 小刀と同じくらいに古びていて、けれど汚れは、それより少ない。

「笛? これもなんか旅で使ったりすんの? ……あ、蛇が出た時とか!?」
「ルカ……蛇使いじゃないんだぞ」
「熊避けには一応なるな。鈴の方が効果的だが」

 この笛は花冠の所持品の中でも珍しい、”旅の役には立たないもの”だった。
 なにせ熊など恐るるに足らなかったから熊避けをする必要もない。実際に熊を避ける意図で吹いたことは旅を始めてこの方一度もなかった。
 だから、この笛は、花冠の旅路に於いて無用の長物であると言えた。

 そう、旅路に於いては。

「笛、聞いてみたいな」

 ぽつり、漏らされた声だった。
 アリシアに視線を向けると驚いたように、あ、いえ、などと掌を振る。

「えと、ごめんなさい、そんな無理にって訳じゃなくて。……花冠さんが嫌なら、別に、その」
「えー、いいじゃん? オレもかかんにーちゃんの笛聞いてみたい! 笛持ってるってことは吹けるんだろ?」
「お前達な……」

 慌てて口籠るアリシアに明るく言い募るジャンルカ、呆れた顔で溜め息をつくシズ。
 この三人はこれでよく均衡が取れているのだなと、そう思わせる光景だった。

 その均衡が崩れぬよう、密かに願い笛を取った。

「少し、静かにしていろ」
「……いいんですか?」
「ああ」

 軽く笑って、笛に口付ける。



「――お前達が相手ならば、そう機嫌も損ねんだろう」



 その真意までは紡がない。



 軽やかな音が吹き抜ける。
 それに心を慰められて、喧しく鳴り響く獣の咆哮も、幾許かおさまったかのように思えた。







************ * * *  *   *        *







「――かえせよ!」

 怒っている。

「ふざけんな! お前の都合なんて知らねぇよ、俺には何にも関係ない!」

 声を荒らげて胸に縋り、無力さに臍を噛み、握り締めた拳から血を流して。
 噛み締めた唇が、色を喪って、白い。

「家族が、いるんだよ。村のみんなだって待ってるんだ!」

 ――ああ、そうか。
 お前にも家族がいるのだな。



「   」

 呼び掛けた名前がもう思い出せない。

「   」

 呼び掛けられた名前ももう思い出せない。
 大切なもの、愛おしいもの、全て指先から零れ落ちて、受け止められず消えていく。



「俺が、いないと――」



 なあ、教えてくれ。
 お前の大切なものは、なんだったんだ?

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